『無線研究部』は1953年に発足された由緒ある課外活動組織です。様々な歴史のもとに今の無線研究部が成り立っています。
『無線研究部』のはじまり
第1回アマチュア無線技士国家試験実施三代目部長金子合格。その後28年に局を申請したが、W以降が割り当てられないため、3コールで好みの「JA1ALB」コールを取得。
第2回国家試験でOB会初代会長の小森谷英俊氏(JA1HF)、現会長の岡田平冶先生(JA1HR)、無線研究部前顧問の石井義平先生(JA1HI)、白倉君(JA0CP)、長嶺君(JA9??)らが大挙合格、無線研究部発足に向けての技術的な基盤を築いた。(当時は好きなコールサインが申請できたそうだ?)
高校の先輩である大山氏と高校の時放送部で一緒だったので、私が2年生の時、「大学でも同じようなクラブを作りませんか」ということで無線研究部を作り、初代の部長を大山氏にお願いした。当初は部室がなく、電気工学科の実験室の準備室をお借りしており、部品もなく何も活動ができない状態だった。その後、小和田、石田、大山、渡辺各先輩らの協力を得て正式に文化会加盟団体『無線研究部』が発足。小森谷英俊氏の活躍でHF帯、VHF帯のアンテナが建設された。
初代部長の大山氏または大和田氏(現在の委員長に当たる)文化部の大会の時数万円の予算を戴き、秋葉原で真空管式の14インチテレビキットを購入して、当時は、同級生の長谷川氏(現在故人)とともに組み立てた。
校友会に予算申請しテレビ製作予算を獲得。長谷川氏らと電気実験室の廊下を部室に借り、キッドのテレビを作成。
当初部員として岡田(JA1HR)氏、小森谷氏、石井(JA1IM)君、白倉(JA0CP)君、長嶺(JA9??)君、長谷川(JA1Y??)君、金子(JA1ALB)らが無線従事者の資格を持ち、コールサインも持っていたが、大学では運用していなかった。私が部長の時、他の大学・クラブの人たちとそろそろクラブ局を作ろうと交渉して大学にもクラブ局ができるようになったので、シャックを持たない長谷川君にコールをJA1Y??を立ち上げてもらった。学園祭(当時はそう呼んだのか)でナショナルの計器類を展示すると共に、私の807シングルのシャックを自宅より運んだシャックで無線局を公開。
イイノホールで、3ヘッドの録音機による立体音響の演奏会を行った。その時ノイズがひどかったが対策がたてられなかった。当時テープレコーダ製作の企業にいたので急遽駆け付け休憩時間に対策としてヘットの脱磁をおこない無事終了した。
様々な無線機の制作と実験を行い、より無線研究部らしい活動が頻繁に行われる
真空管式435MHz帯送信機を試作、巣鴨のJARLと芝浦校舎との間で当時の日本タイ記録である10kmの伝搬実験に成功。
福島県裏磐梯檜原湖村で夏期合宿、夢中の磐梯山へ米軍放出10kg近いトランシーバを担いで登頂。この時、近所の電界測定をした。
長野県野尻湖村の公民館を借りて自炊の夏期合宿、テレビなど電気製品の無料修理実施に対し信濃毎日新聞の取材を受ける。
宮城県松島で夏期合宿を行った。午前中は先輩による勉強会、午後は岩場に出てサザエやアワビ取り、夕景は浜辺でキャンプファイヤを囲みウクレレを奏で、笛を吹きハワイアンに深夜まで興じた。公民館をお借りし、近所のテレビ・電化製品等の修理をした。
2年前と同じ長野県野尻湖村で夏期合宿を行う。
OB総会が執り行われるようになる
第1回無線研究部OB総会開催、初代会長に小森谷英俊氏を選出。
新潟県石打スキー場近くのペンション“アインホルン”にて夏期合宿。参加者:現役20名、OB7名
小森谷英俊OB会会長逝去。(享年65才)
大宮校舎にて第3回OB総会開催、満場一致で岡田平冶新会長を選出。
新潟県越後湯沢村にて夏期合宿。参加者:現役21名、OB9名
文化祭での活動もより活発に
ALL JAコンテストに参加し、FMML社団局電信電話L部門にて全国第1位を獲得する。
全市全郡コンテストに参加し、FMML社団局電信電話L部門にて全国第2位を獲得。
芝浦祭にてそば飯屋台出店・教室展示を始める。
田町キャンパス閉鎖に伴い、田町部室撤去。
情報発信に力を入れ始める時期に
無線研究部のホームページを一新。より情報を発信しやすい体制を整える。
初のオンラインOB総会を開催。学生は斎藤記念館にて、OBの方々はzoomでのオンライン中継での参加となった。
ALL Asian DX コンテストに参加し海外局と交信した。